地政学が好きな大学生による日常記録

地政学を軸として日々思いついたことをつれづれなるままに書いてくブログです。

読書方法 実践 〜中公新書 元老より〜

 まず、「元老」という用語の由来と元老制度の説明について、どれほど曖昧であるかも含め、簡単に見てみよう。             

 

 本書では元老に対して皆さんが抱いている漠然としたイメージを広辞苑等から引用するところから始まっています。

自分は大学受験の時に日本史を選択していたのですが、憲法制定の頃に出てきた元老院という存在は不思議でした。元老院の説明を辞書で引いてみても抽象的な説明で、結局元勲との違いは何なのかといった疑問もわいてきました。

こうした疑問には元老の歴史的経緯をもとに説明されています。

まだ最後まで読みきれてませんが、最終的にこの疑問が解決してくれたらいいなと思います。

 

 

とりあえず今日は現在読めてるところまでで、気になったところをピックアップしていきたいです。これは遅読家のための読書術で挙げられていた一文ごとに記録することを、ブログで実践するためです。

引用の方法があってるかまだわからないのですが、そこらへんは細心の注意を払います。

 

このように「内閣」(正院の三職)ですべての重要事項を実質的に決定する、という制度ができていったので、後述するように、少年であった明治天皇が、成長するにしたがって天皇がすべてを決定するという「万機親裁」の原理にもとづいて発言しようとすると、「内閣」は当然拒否するようになった。

最初にこれを読んだときは驚きました。なぜなら自分は戦前の天皇はなんでも発言すれば鶴の一声のように実行されるものだと思っていたからです。ただ、現実は明治天皇が大きくなってからも発言力は限定的でした。

*この時の内閣は現在の内閣とは違って、政大臣・左右大臣・参議の3つを指す。

これらは天皇を輔翼する重官として三職と規定された。そして、ここに維新政府の実力者が入ることで影響力を行使しようとした。

 

このため大久保・木戸・三条・岩倉ら維新の「元勲」の集団を意味する「元勲院」ではなく、より権威のない「元老院」という名称になったのである。

 

これは元老院よりも当面は内閣を中心として改革を進めていった方がいいという伊藤と大久保の判断が背景にある。

またこうした動きには台湾出兵があり、その事後処理において大久保と三条・岩倉との対立がある。台湾出兵は日本史の授業でもでてきておりそれほど目立ったものでもないと思っていたが、まさかこんな元老院の設立に影響を及ぼしているとは知らなかった。

さらに言えば元老院設立に積極的に関与していたのは大久保だが、なぜ彼なのかというと征韓論争において西郷や板垣が下野するなど薩摩閥内の勢力が崩れていたからである。

 

 

 

この体制下で、1876年半ばになると、参議を辞任した木戸(内閣顧問ではある)に代わって、伊藤が長州系の間で木戸以上の権力を持つようになり、長州系を束ねながら大久保を支え、立憲国家形成を目指す存在となった。

この体制下とは大久保のことである。大久保は派閥にこだわらずに人材を登用して、また長期的な日本の近代化へのビジョンを持ち備えていたことが、彼を躍動させた。

しかしまだこの頃は岩倉や三条といった貴族もいたが、前者は老齢で、後者は岩倉の影響力低下に伴って自然となくなった。

木戸は長州閥の元リーダーで、伊藤博文井上薫を従えていた。しかし大久保が影響力を大きくする契機となった台湾出兵を批判して辞任した結果、影響力を失った。

 

以上の経緯から伊藤と大久保は棚から牡丹餅の形で成長していくことになる。

後に大久保は紀尾井坂の変で暗殺され、伊藤は西南戦争を経て大きくなっていく。

 

 

 

 

今回は気になった一文を引用していく形で記事を書いてみた。

やってみると意外と時間がかかったので、最初に読んでいるときに気になったものはあらかじめ何かしらの方法で記録を残しといたほうがいいかもしれない。

ただ、書評という形ではこのやり方はいいかもしれない。今後も同様のものを挙げていきたい。

 

【*この記事内の引用はすべて『中公新書 元老 伊藤之雄』より】